Home < 喜怒哀楽DONBURI<「哀」
「哀」哀しい >
29年目の黒皮の手帳
黒皮の手帳 平積みにされた実用書
29年間まったくスタイルが変わらない手帳 ヒット目指して企画を練る実用書出版業界(ブックフェア2007で)


群羊社は1978年創業、この10月で29年目を迎える。
 創業の年から29年間ずっと使ってきたのが写真の手帳29冊である。これを見ると古い昔の仕事でもその時の風景を思い出すことができる。
 面白いのは29年間、手帳のサイズやデザイン、構成がまったく変わっていないことだ。途中からは変わらないことが好きになって使い続けている。かくも長き間、まったく変えようとしなかった編集責任者に敬意を表したい。変わらない手帳に毎年変わったことが記録されていくから面白い。
 この手帳は、見開きに1週間の予定表、巻末に資料が80ページあまりついている。もちろん情報は毎年更新されている。作家や研究者などの有名人・出版社などのメディア・大学・博物館・図書館・官公庁・ホテルなどの名簿、郵便料金、国内外地図、路線図、カレンダー、電報文例、世界の時間などがついている。タテ144×ヨコ87ミリ、表紙には文化手帖2007とあるだけの市販品。


 今年も東京国際ブックフェアが終わった。実用書でも今までにない変わった切り口のヒット作もあるが、物まね企画も相変わらず多い。
 編集者は、同じ本を毎年作っていると大なり小なり飽きがくる。少し内容を変えたりレベルを上げることが企画の斬新さと誤解するのも無理はない。しかし変えることによって本来のニーズから外れていくのは怖い。
 例えば、料理初心者向けの実用書のメインターゲットが20歳女性とする。問題は20歳の女性は毎年数十万人入れ変わっていくことである。編集者が退屈だからとグレードアップしようとすると、初心者のステージに立った新20歳を置き去りにしてしまうことになる。もちろん時代に合わせて切り口を変えるのは当然のことであるが・・。
 「編集者とは素人になれるプロである」。「家庭画報」の元編集長の大嶋さんの名言だ。対象読者になりきって、変えてよいもの・よくないものの実体をよく考えてみることが大事だと思う。

(2007.7 ふ)
▲ページトップへ
函館朝市のどんぶり横町
ビルになったどんぶり横町 三色お好み丼 新島襄日本脱出の地碑
ビルになったどんぶり横町 三色お好み丼と生ビールは最高! 新島襄、国禁を犯して日本脱出の地

私は旅が好きである。旅先で食べることが好きである。
 なかんずく好きなのは港町である。
 そこには海のにおいがある。漁船や人々がにぎやかに行き交い、市場や朝市には飲み処や食堂があり、とれたての極上の味が楽しめる。
 全国津々浦々ある漁港で格別好きなのが函館である。かつては北前船が行き来し、北洋漁業の基地、貿易港として華やかな歴史を持つ函館は、食の文化も多彩だ。
 何年ぶりかで函館を訪れた。前回は粉雪が斜めに降り注ぐ極寒の日であった。朝市で食べた三色お好み丼はおいしかった。400店もの店がひしめく函館朝市は終戦直後の闇市が起源だそうだ。今回もイカそうめん、イカのきも、三色お好み丼、みなおいしかった。だが、どこかが違う・・。
 どんぶり横町が立派なビルになり、こぎれいになっていた。風情がなくなった。きれいで無機質のビルではどうもただよう空気が違う。昔の屋台風の雰囲気がよかった。  箱舘が日本最初の貿易港として開かれたのは1859年。当時は、開国派と尊王攘夷派がせめぎあう幕末の混乱期。軍艦8隻と榎本武揚率いる旧幕府軍が函館入り、五稜郭を占拠したのも束の間、 1968年、ついに徳川幕府は崩壊し新体制が誕生した。

 箱舘開港から江戸幕府崩壊までわずか10年。その真っ只中、明治維新まであと4年という1864年7月17日の深夜、21歳の青年が函館港の波止場から1隻の小舟に身を隠し国外脱出を図った。西欧に学ぶことの必要性を感じた新島襄(1843-1890)であった。打ち首覚悟で湾内に停泊中のアメリカの商船ベルリン号に乗り移り密出国に成功。上海で別のアメリカ船に乗り換え、各地を寄港しながら翌年7月20日ボストン着、アーモスト大学などで10年学んだ。1874年(明治7年)帰国、翌年、同志社英学校(同志社大学の前身)を設立、大隈重信、木戸孝允などどともに新生日本の教育の一翼を担った。
 「一国の良心ともいうべき人々を育成する」ことを教育理念とし47歳という短い人生を駆け抜けた新島襄。
 出発前、どこでだれと函館の夜空を仰ぎ見たのだろうか? どんな思いで飯を食べ、酒を飲んだのだろうか?(あるいは飲まなかった?)
(2007.7 ふ)
▲ページトップへ
←前ページへ 次ページへ→